ヴィパッサナー瞑想10日間コースを終えて

そもそもブッダは「ナンマイダー」と唱えると極楽浄土に行けると教えたわけではなくて、仏教を起こしたのはブッダの死後彼の教えを世界に広めようとした人たちなんですね。時が経つにつれその解釈に違いがあらわれ、様々な宗派が生まれて現在に至ると。そう考えると彼が発見し人々に教えた瞑想法が今日まで残っていてそれをこうして学べるなんて感慨深い。


しかし10日間。瞑想三昧だった。1日10時間瞑想して6時間寝るとすると、つまり1日のうち目を閉じている時間の方が開けている時間より長い。朝ちゃんと顔を洗ったはずなのに昼には目やにがついている。


さあてぇ〜、ほいじゃそろそろいきますか。長文です。


その世界は4日目の早朝の瞑想中に現れた。現れたというべきなんだろうか、僕は偶然にもそこに行くことができた。行くというべきなんだろうか、突然僕のまわりに何もない空間が広がった。


そこには何もないんだけど、絶対的な幸福感に満たされていて、そこにいるとα波を全身に照射されているみたいに心地がよかった。何もないなずなのに全て満たされている。全てがあるのに何もない。そんな場所だった。


その間決して意識がとんだわけではない。頭はぽわんとしているのだけど、全身の感覚は冴えていた。


そこに約30分ぐらいいたと思う。瞑想やめの合図で目を開けると、その空間も消えてなくなった。しばらくは頭がぼーっとしたままだった。なんだか心が洗われたような気がした。


なんだったんだー、あれは?

真実とは空(くう)であり、空とは満たされていることを意味し、自然の一切の法則は空の中にある。(ダライ・ラマ


くっ、空ってこのことだったんですか?


にわかに全身が興奮してきた。ヴィパッサナー瞑想をマスターするといつでもあの「世界」に行き来できるようになるんだろうか。だとしたらこれ程心強いものはない。この先の人生でどれ程ストレスがかかろうとも、どれ程鬱状態に落ち入ろうとも「ちょっと瞑想してきます」っていってあの「世界」に行ってくればたちまち心がリセットされる。そう思える場所だった。


それから再びその「世界」にたどり着こうとトライしたがなかなかうまくいかなかった。習った通りに瞑想したし、自己流も試してみた。


その「世界」に入れた時の感覚は、まず全身が細かく振動するか、細かく振動する物質に包まれたような感覚になり、その振動に何かが共振し、振幅がどんどん大きくなり、その振幅がある臨界点を超えた瞬間にその「世界」が現れた、というような感じだった。「自己流」とは、その感覚を思い出し、後頭部の首の付け根あたり、あくびをすると震える箇所に力を入れて細かく振動させ、その振動を全身に広げていこうというもの。背中全体や両腕までは振動が広がったがなかなか下半身までは振動が伝わらない。それでも何とか体全体の7割くらいまで振動させ「よし、その調子。その感じだ。もうちょっと」と思うのだが、そこいらあたりが限界で、ひゅーんと振動がしぼんでしまう。あと2つか3つ、何かの要素が足りない気がした。やはり何かの偶然が重なったのだろうか。


結局それ以来再びその「世界」に入ることはできずにいた。


そのうち、毎日の講義ビデオに内容から推測するヴィパッサナー瞑想のゴールと、僕が見た「世界」は関係ないんじゃないかというきがしてきた。(実は講義ビデオは英語のため内容の半分も理解できんかった。日本語の本かビデオが手に入れば復習したい)


そもそもヴィパッサナー瞑想は万病に効く特効薬というわけではない。悪い心の状態を病気に例えるなら、病気を治すための技ではなく、病気にならない生活を送るための技なのだ。やはり僕が見た「世界」は単なる偶然で、ヴィパッサナーには関係なさそうだなと薄々わかり出したが、そこはクリアにしておこうと思い6日目の質問タイムにアシスタント・ティーチャー*1に質問しに行った。


ヴィパッサナー瞑想の最終ゴールは何ですか? 何かを見ることはできますか?」
と聞くと、
「ヴィパッサナーの最終的なゴールは視・聴・嗅・味・触の五感に感情を加えた6つの感覚からの開放、ミゼラブルからの開放だ。それは感覚的なもので何か特定のヴィジョンを見ることはない」
との答え。ミゼラブルとは6つの感覚にとらわれた状態をいうのだろう。


「4日目の朝の瞑想中にあるヴィジョンを見ました」
「集中した状態に入ると時々イメージが現れることがある。でもそのイメージに反応せずにそのイメージも観察しなさい」
「いえ、イメージというより何も無い空間のようなものでした」
「ヴァイブレーションか。何かこう波のようなものに囲まれた感じじゃったか?」
「そっ、そうです。まさにそれです」
「それも時々起こる。ヴィパッサナーのゴールとは関係ない」


そうかー。やはりただの偶然か。
それから師は、全ての感覚は現れては消え、現れては消えするものだ。現れた時にそれに反応することなくじっと観察しなさい。そうするとそれはやがて消えるという瞑想法とヴィパッサナーのゴールにいたる道について話しをしてくれて、最後に「長い道のりじゃ*2」とおっしゃった。4日目なんかにたどり着けんよと言われてる気がした。


それからは自己流は一切やめて、教えられた通りに瞑想した。そうしてその後その「ヴァイブレーション」は再び起こることなくコースが終了した。



僕はこの10日間で何を学ぶことができただろうか。本格的な瞑想の前段階としての集中した状態に入っていく方法と、感情を一定に保つ方法はマスターできたと思う。感覚からの開放はまだまだだと思う。そもそも10日間で誰もがブッダになれるわけではなく、続けることが大事らしい。


でも瞑想中に過去に本気で腹を立てたことを思い出し、それによって呼吸が乱れるのを感じ、ああ僕はまだそのことを消化しきれてないんだなあと思ったり、逆に楽しかったりうれしかったりしたことを思い出して顔がにやけてしまって、おっとこりゃいかんと思ったり、朝4時に起き、まだ暗い4時半から2時間瞑想して、目を開けると夜が明けていて朝日が神々しく輝いているのを見てすがすがしい気分になったりと、とてもいい体験ができたと思う。

特に10日目に、自分の中の怒りや嫉妬といった負の感情を外に出し、心が落ち着いた状態になったらそのハッピーな状態をみんなでシェアしましょうというピースフルな瞑想法を教わり、それをみんなで実践した後に、他の参加者と10日目にしてやっと自由に話しをすることが許され、「やあ、名前はなんていうんだい? どこ出身? ハッピーかい?」と誰かれかまわず話をしたあの幸福な開放感はこのコースをやり遂げた者にしか味わえないだろうと思う。


MAY ALL BEINGS BE HAPPY.
MAY ALL BEINGS BE HAPPY.
MAY ALL BEINGS BE HAPPY.
全ての生きとし生けるものが幸せでありますように。



ま、みなさんもお試しあれ。日本ヴィパッサナー協会http://www.jp.dhamma.org/)は今度千葉に2つ目の瞑想センターを建てるそうだ。関東地方の人には朗報ですな。インドでコースを受けようと思っている人はブッダガヤー等では毎日の終わりに聞くゴエンカ氏の講義ビデオを日本語で聞けるらしい*3ので確認してから行くとよい。



P.S.

インドの電車のチケットを買うために駅の窓口に並んでいると、横入りをするインド人が多くてそれを阻止しようとするとちょっとしたハッスルになりいらいらすることが多いのだが、瞑想センターからの帰りに電車のチケットを買うときは、相変わらず横入りをするインド人が多かったにもかかわらず、特に心を乱されることなくチケットを買うことができた。これはヴィパッサナー瞑想の効果なんだろうか。それとも、阻止できるだけ阻止してそれでも横入りしてくる奴はもうしょうがないという妥協が諦念の観に達しただけなんだろうか。

しかし堂々と横入りされているのに文句を言わないインド人が多いのは何故だろう?
上のカーストの人には逆らえないという暗黙の社会構造があるからだろうか。そう考えて観察してみると横入りする人の方が横入りされる人より身なりがいい気がした。

*1:アシスタント・ティーチャーといってもシーク教徒のようなターバンを頭に巻き、シャツより白いひげをなみなみとたくわえ貫禄十分。一人でも十分人に教えられるレベルの方だと思う。現在のヴィパッサナー瞑想界でティーチャーと呼ぶのはおそらくゴエンカ氏一人で、他の指導者は全てアシスタントという位置づけなんだと思う。慶應義塾大学で先生と呼んでいいのは福澤諭吉先生だけで他の教授は君付けで呼ぶというのを思い出した。

*2:この「なんとかじゃ」っていうのは僕の勝手な想像で、実際の会話は英語。

*3:ブッダガヤーでコースに参加し日本語で聞いたという人に実際に会ったが他は不明。サルナートとかダラムサラーでも日本語で聞けるといううわさ。