クラシック音楽演奏家の究極

Dr.ネルソン一家は奥さんのザヒーアはもちろん、2人の息子さん、1人の娘さんを含め全員が霊媒なのだそうだ。ザヒーアはDr.ネルソンの調子が悪い日には自分の体にDr.ハンセンを降ろすことができるぐらいの実力の持ち主らしいが、3人の子供たちの実力の程はよくわからない。

息子さんの1人は毎週金曜日にDr.ハンセンの書いた処方箋を判読する係りをしている。Dr.ハンセンの字は汚く、手元を見ずに殴り書きすることも多く、普通の人では読めない。そのまま薬屋に持って行っても何て書いてあるかわからないと言われてしまうので、Dr.ハンセンに処方箋をもらったらすぐに息子さんの所に行き、文字を判読してきれいに書き直してもらうのだ。この役はザヒーアがやる時もある。彼らが文字通りに文字だけを読み取っているのか、それともサイコメトリーのように文字以外の情報も読み取っているのかはわからない。まあ汚いといっても僕でも半分ぐらいのアルファベットを読めるのでホメオパシーに通じている人なら残りを推測できそうだけど。

もう1人の息子さんはプロのピアニストらしく、よくDr.ハンセンの公開手術の時にピアノを弾くのだが、これがはっとする程うまい。「うまい」というのは別に技巧的にうまいというのではなく、いや技巧的にもうまいんだろうけど、かつエモーショナルで、ともかくはっと聞き入ってしまう程なのだ。弾いている曲はよくわからないけどクラシックっぽい。アヴェ-マリアを弾く時もある。(それだけはわかる)


僕は友達にリストを弾くピアニストがいて彼の演奏会には可能な限り行くし、彼の師匠のケマル・ゲキチ氏の演奏会も機会があれば行くので年に数回だけクラシックに触れる機会がある。それ以外は全くと言っていい程クラシックは聴かないので、クラシック音楽については「クラシックって譜面通りに弾かなきゃいけないんだよね」ぐらいの浅薄な知識しかない。そんなんだけど、ここでクラシック音楽演奏家が究極に目指すものとは何だろうということについて考えてみる。ただ、クラシック音楽とは何かということが曖昧だと話しを進められないのでここでは仮に「クラシック音楽の演奏とは過去のある時代の音楽を完成されたものとみなしそれを再現するもの」と定義してみる。そう考えると「譜面通りに弾かなくてはならない」というのも納得できる。何か新しいものを付け加えてしまったらとたんにそれはクラシック音楽ではなくなり、現代音楽もしくは現代風クラシック音楽とかいうものになってしまうからだ。

では譜面通りに弾かなくてはならないクラシック音楽において、演奏家は自分の個性を演奏に反映することができるのだろうか? 例えば同じ作曲家の同じ曲を同程度の演奏技術を持った2人の演奏家が演奏したらそれは全く同じものになるのだろうか? きっとならないだろうと思う。なぜなら、譜面といっても完全でないからだ。例えば音の強さについてf(強く)とかmf(やや強く)とか表したとしてもそれは何デシベルで弾くとかいう絶対的な音の大きさを表すのではなくて相対的なものだし、その中間の音量だって無数に存在する。結局譜面に表しきれていない部分は演奏家が独自に解釈して演奏する必要があるので、その解釈の違いが演奏家の個性となって表れるのではないかと思う。

でももし仮に作曲家が演奏に必要な情報を全て譜面に表すことができたとしたらどうなるだろう。それは音の強さやテンポだけでなく、どのように感情を込めるかといったことも含め、およそ人間が表現しうる全ての情報を含むものである。もしそんな譜面が残っていたとしたら演奏家の個性なんか入り込む余地はなくなってしまうのではないだろうか。つまり、演奏家が譜面に表せていない作曲家の意図をとことん突き詰めて演奏するということは、最終的には作曲家が意図する音楽を正確に再生する単なる媒体になるということではないだろうか。


もし作曲家の霊と交信しその霊を体に降ろし演奏ができる霊媒演奏家がいたら、それってクラシック音楽演奏家の究極だよね。と話しをまとめようと思ったけどやっぱやめた。別に霊媒体質でない普通の人でも自我を捨てて「無」になることでその境地に到達できるだろうと思うからである。